『小金井通信』 2024年6月 ◆「月刊ライト」2005年12月号

【アーカイブ】「月刊ライト」2005年12月号  (取材・小柳博之)


「ショート・インタビュー」
  小手川大助関東財務局長に聞く

 役人の仕事で大切なのは「国民のほうを向き、何を望んでいるかを考えること」。また、「国民が、海外で競争しやすい枠組みや制度の企画立案が肝心」――。
 学生時代は野球部だった。ゴルフ、テニス、スキーと、スポーツはオールラウンダー。その学生時代にはロシア語の通訳もやっており、こうした関係でボリショイ劇場の人たちとも懇意。週末はバレエを観に行ったり、ゴルフの練習場にいたり、はたまたテニスだったり、冬はスキー場だったりと忙しい。
 くよくよ考えない性格。雑誌編集者ら6、7名と『東京居酒屋研究会』を組織する庶民派である。
 関東財務局には今年7月中旬に着任。財務局の仕事に携わるのは今回が初めて。「失敗を恐れず、リスクをとって思い切った仕事をして欲しい。責任は私が取る」と幹部職員に要望した。
 一方、一般職員には「常に国民のほうを向いていただきたい。情報公開時代にあっては、行政の結果は常に国民の前に晒されていることを念頭に置いていただきたい」と訓示した。難しい事案で判断に迷うときは、「どちらの選択肢が、国民にとって喜ばしいかで考えると間違いは少ない」。
 小手川大助関東財務局長(こてがわ・だいすけ:昭和50年4月大蔵省入省。昭和26年5月生まれ、大分県出身。東京大学法学部卒業)に、管内金融情勢全般について伺うとともに、記憶に残る一齣について振り返っていただいた。   (取材・構成=編集部・小柳)


――小川局長は1996年(平成8年)7月、大蔵省証券局証券課長に着任していますが、このとき歴史的な事態に遭遇しますね。
小手川局長: 着任後、すぐにビッグバンが始まりました。1997年は、野村證券等で総会屋問題が取り沙汰されました。この年秋、山一證券と三洋証券が経営破綻しました。
 
――1998年6月に金融監督庁が誕生すると、監督部監督総括課長に発令されましたが。
小手川局長: この年10月に日本長期信用銀行が、また12月には日本債券信用銀行が経営破綻しました。翌1999年には信用組合関連の仕事に従事しました。信組基金の創設等にも携わりました。クレディスイスに対する行政処分もあり、1999年12月は泊まり込みが続きました。
 
――山一證券の経営破綻では、随分ご苦労されたと思いますが。
小手川局長: 実は、みなさんからよくそう言われます。確かに大変でした。しかし精神的には楽だったかもしれません。当時の長野証券局長は、責任の一切は自分が被ると言ってくれました。ですから担当者としては、非常に気が楽でした。三洋証券の会社更正手続きでは、1996年秋から長野局長から話しがあり、三洋証券の状況を鑑みながら関係者らと調整を続けていました。
 そして、さまざまな方策について詰める中で、国際証券との合併について模索していました。1997年夏には、上手く行きそうな感触でした。10月にも発表しようかというタイミングでした。そして、ほとんどのマスコミは、この事実を掴んでいるようでした。Y新聞やN放送局は私を訪ね、「こういう話があるでしょう」とおっしゃるので「ノーコメント」と答えると、「課長の立場は分かります。合併話は成就する前に表沙汰になると破談になることもありますから……」という遣り取りがあったことを記憶しています。
 しかし、S新聞とT新聞は、この情報を掴んでいないようでした。またS新聞は、間違った情報を掴んでいると感じました。出遅れると慌てるのでしょうか、当時のキャップはHさんでしたが、この記事が9月26日付金曜日に掲載になりました。
 案の定、致命的なミスが二つありました。その一つは、合併を「営業譲渡」と報道したことでした。営業譲渡の場合は、債権者は切り捨てられてしまいます。
 この報道により、三洋証券は当時コール市場に資金を出していたのですが、あっという間に資金が枯渇してしまいました。その4日後の月末にはコール市場から資金を入れなければならない状況に追い込まれてしまいました。偶然ですが、26日は国際証券の支店長会議の日でした。
 もう一つの間違いは、三洋証券がグループ内の三和銀行の傘下に入るという報道でした。したがって、国際証券から強い反対意見が出されました。結局、合併は潰えてしまいました。
 長野局長には折りに触れ、口頭で進捗状況を伝えていましたが、9月26日午前4時に事情に詳しい連中から情報が入りました。「S新聞がこんな記事を掲載しています」と。内容は間違っているのだから、「否定会見をすればいいでしょう」と国際証券に掛け合いましたが、支店長会議の席上で合併は否決されてしまいました。
 その朝、九時半に出勤すると、長野局長はすでに出勤していました。そして、「そろそろ、俺の出番だな」と一言だけおっしゃいました。この一言で、肩の荷が全ておりました。部下がもっとも困難なときに、上司がその責任を全て引き受けてくれるのですから。
 
――そうなると、山一證券の破綻(11月22日に自主廃業申請)はもっと大変だったわけですね。
小手川局長: 山一證券は、火曜日の夜でした。3日間徹夜で海外も含めて債務超過になっていないという判断でした。長野局長は会社更生法でと考えていました。でも、私は全面的に反対しました。
 三洋証券の口座数は30万でした。しかし30万人の債権者集会を考えてみて下さい。また会社更正を行う一方、30万口座の個別の支払いについて是か否かと裁判所に仰がなければなければなりません。実は、この応対で東京地裁はパンクしてしまいました。朝6時から夜中まで判事や応援を含めて対応しても、電話はひっきりなし状態でした。
 山一證券は、その10倍の300万口座でしたから、日本中の裁判所を使っても絶対に対応困難でした。長野局長は一晩考えた末に、水曜日の朝出勤するや職員を集め、「自主廃業にする」と結論を下しました。「これから大変なことになると思う。みんな最後まで俺を信じてついて来てくれ」と言いました。この発言を聞いた瞬間、ジーンと胸に迫るものがありました。
 
――その後、三井海上が三洋証券を買収するという話もありましたが。
小手川局長: それは会社更正手続きに入ったのちのことです。年明けにスポンサー探しをしていたときのことでしょう。私は、三井海上が名乗りを上げているとマスコミを通じて知りました。しかし結局、誰も手を上げませんでした。更正管財人である弁護士がスポンサー探しに当たっていましたから、詳しい経緯については存じ上げません。

――関東財務局管内金融機関の情勢についても触れて下さい。
小手川局長: 私は平成12年に財務省に戻り、6年が過ぎました。今回、関東財務局に来て感じたことですが、金融システムは全く様変わりです。
 当時に比べると、格段に安定しています。今、忙しいのはいわゆる雑金(信用金庫および消費者金融)でしょうか。保険関係では、無認可共済の監督等です。従来、行政として何もやってこなかった分野について、新しい法律ができました。
 ただし、ここは何か問題が発生した場合のみに対応する分野ですから、監督の度合いとしては比較的浅い分野です。
 しかし、数が多いこと、また苦情が多いこともあり、この苦情について調査するとさまざまな問題が浮き彫りになっています。

――無認可共済等への対応が忙しいということですが。
小手川局長: 保険監督は金融庁が対応にあたっています。したがって財務局では、保険業に関する知識について組織としてのノウハウを持ちません。
 全国財務局長会議の席で私は、「適切な人員配置をしていただきたい」とお願いしました。また経験のない分野ですから、ノウハウ面での対応についても要望しました。要するに、放ったらかし状態で「こういう制度ができたからと言われても、対応は困難です」というお願いです。
 来年度の機構定員要求では、増員を要求しています。関東財務局の仕事は、通常全国ベースの3、4割程度ですが、この分野について言えば、7、8割は担当しなければなりません。人員配置と体制整備がまず肝心です。